あたらしい事業をはじめたぞ。

家庭教師業とか教育支援のプロジェクトとかに携わってたときに感じていたもやもやを解消できる、なかなか面白い試みだと思うんだけどどうだろうか。


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オルタナティブ教育っていうのは、要するに既存の教育制度の穴埋めや代替になる教育だ。

それがどのようなものなのかは上にリンクを貼ったHPで語ったので、今回はこれを生み出すきっかけになったインドでのできごとについて話そう。



以下に引用するのは、支援団体の仲間と一緒にインドの寄宿舎を訪れたときの私の感想文だ。寄宿舎には様々な事情で親元で暮らせない子供たちが四十人ほど生活していた。当時の印象に敬意を表してそのまま載せてみよう。


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 恐らくこれはツアーメンバー共通の見解だと思うが、一番印象に残ったのは子供たちの笑顔と無邪気さだ。子供が明るいのは日本もインドも同じだった。国籍や人種の違いは、僕らが考えているほど重要ではないのかもしれない。ただ、もちろん全く同じという訳ではなく、日本の子供とは少し様子が違うなと思う場面もあった。

 僕らはインドの子供たちと遊ぶために折り紙をいくらか持って行った。これはかなり好評で、鶴やなんやを折ってくれとせがむ子供たちが集まり、僕以外のメンバーの周り(僕は鶴を折れなかったので)には人垣ができた。そして、折り紙の中には数枚だけキラキラ光る特殊加工が施された物が含まれていた。一人の子供がこれを発見し、嬉しそうにしていたところ、別な子供がこれを取り上げて自分の物にしてしまったのである。


 日本だったら一悶着起きそうな場面だ。しかしキラキラ折り紙を取られた子供は一瞬残念そうな顔をしただけで、別な普通の折り紙を貰ってニコニコしだしたのである。気になってよく観察していると、フリスビーで遊んでいた時にも他の子供同士で同じようなことがあったし、これは少し毛色の違う話だが、子供たちが談笑している部屋にシスターが入ってくると、それまでの賑わいが嘘のように、水を打ったようにしんとなるのだ。なんと言うか、上位の存在に対する屈従の傾向が、日本の子供より強い印象があった。


 どうも寄宿舎の子供たちには共通して〈妙な諦めの良さ〉があるようなのだ。それが、インド人の国民性なのか、寄宿舎のキリスト教精神なのか(この施設に限らず慈善活動を行っている施設は大体キリスト教資本で動いている)、あるいは貧富の格差や出自の上下が醸す絶望感なのか、それは解らない。いや、そんなことはどうでもいいことで、ともかく僕には子供たちの〈妙な諦めの良さ〉が面白くなかった。メンバー内では、日本の場合より平和的解決が図られるのでこれを良しとする意見が多数派を占めたが、僕はこれには同意できない。諦念によって成立する平和、そんなものは糞食らえだ。


 キラキラ折り紙を愛するなら、暴力でも言論でも陰湿なやり方でもなんでもいい、なんらかの形で闘争を起こすべきだ。さもなければ一生諦め続けるしかない。取られたら取り返せとまでは言うまい。せめて、キラキラ折り紙を取られてしまうことが理不尽だと、当たり前だとか仕方ないとかではなく、これは理不尽だと不満に思ってほしい。現状に不満を持つこと、それは最初の一歩になる。もちろん僕はキラキラ折り紙に限った話をしているのではない。


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で、帰国してから思ったのは、別に日本人の間でもこの〈妙な諦めの良さ〉が珍しくないということだ。

日本でこの「諦め」を促しているのは、同調圧力とか、出る杭は打つ精神とかで、インドとは諦める内容が微妙に違うんだけど、大体の話は同じだ。

で、私が言いたいのはインドにも日本にも諦めを促すイデオロギーみたいなものがあって(コミュニティー内では常識と呼ばれ、外側の人間はそれを偏見と呼ぶ)、これには全然正当性がないということだ。

このイデオロギーに侵される人を一人でも減らしたいと考えたときに、何人かの偉人の顔が思い浮かんで、帝王学のカリキュラムは自然に決まった。


別に今日の話にオチはないです。代わりにリンクをもう一回貼っておきます。

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